公平が藤堂保弘の個展を知ったのは通勤途中の京王線の吊り広告だった。『藤堂保弘×藤堂良枝 個展 命の息吹』公平は心が躍った。
個展は七月の最後の日曜日から始まった。会場の東京新美術館企画展示室には多くのファンが訪れていた。藤堂保弘の躍動的な生命の写真と良枝夫人の自然をモチーフにした抽象的油絵のコラボレーション、それに藤堂夫妻の選んだ若手芸術家の作品が展示されている。公平は妹の琴乃と一緒にやって来た。
地下鉄六本木駅から美術館に向かう炎天下の道を二人は歩いていた。
「お兄ちゃんが芸術に興味があるなんて本当に意外。どうしちゃったの?」と琴乃が公平を茶化した。琴乃は公平から美術館に行こうと誘われ、たまには兄貴とデートをするのもいいかと思いついて来た。本音は、帰りに六本木で公平に何か美味しい物をたかるつもりだった。
公平が真面目に言った。
「お前もファンになるぞ、藤堂保弘の世界」
入場券を買い求め、案内を見て展示室を確認して二人は二階に上がった。入り口で記帳をして会場内に入る。かなりの人が鑑賞していたが会場は静寂を保っていた。会場入口の正面に三メートルはありそうな大きな屋久杉の写真が来場客を迎えた。それはまるで3D画像を見ているかのように立体的でそびえるように入る者を圧倒した。
「すごい!」
琴乃が息を飲んだ。
「この屋久杉、見ていると鳥の囀りが聞こえそう」
公平も思わず唸った。二人は無言のまま会場内に足を進めた。目に映る写真にはどれも命の息吹を感じさせられた。展示された写真の三枚に一枚くらいの割合で藤堂良枝の油絵が写真のコンセプトに合わせて展示されていた。会場はいくつものパーティションで仕切られた展示室で構成されていた。作品の半分ほどを鑑賞したところに休憩用のちょっと洒落たベンチがロの字においてあった。そこはちょっと広めのスペースをとった展示室になっていた。周囲の壁には将来を嘱望される若手たちの作品が展示されていた。その展示室に入った公平が思わず声を上げた。
「カワセミだ。深田さんのカワセミだ!」
その展示室の正面真ん中にそれはあった。三枚のカワセミがまさに飛び立った瞬間の連続写真だった。それは躍動的で鮮やかな青緑色が輝く素晴らしい写真だった。公平は震えた。心の中で叫んだ。深田さんやったね。
「深田さん? お兄ちゃんの知り合いなの? この写真撮った人」
「琴乃、この写真、どこだと思う?」
「さあ? お兄ちゃん、知っているの?」
「いたんだよ。俺、この写真が撮られた時に隣にいたんだよ。野川なんだ、ここ。深田さんっていうんだよ、この写真撮った人。魂のシャッターなんだよ!」
「魂のシャッター? 何それ?」
琴乃は興奮する兄が何を話しているのか分からなかった。
「野々村さん?」と声をかけられた。振り向くとそこに深田が立っていた。
「深田さん! すごい! すごいよ! やりましたね」
公平は深田の手を取り固く握った。公平の興奮は収まらなかった。
「ありがとうございます。でも今回の展示は藤堂先生のお陰なんです」
深田は照れながらそう言うと琴乃を見た。
「彼女とわざわざ来てくれたのですか」
「彼女? いやいや違います。こんなガチャガチャな奴、妹です」
「ガチャガチャってなによ!」
琴乃の素っ頓狂な声に深田が笑った。琴乃が笑った深田の方を向いた。
「いや、ごめんなさい」深田は慌てて謝った。
「兄がお世話になっております」琴乃はすまし顔で挨拶をした。
「お世話になっているのは僕の方なんです」
公平も何を言い出すのかと深田を見た。
「兄に? ですか?」
「はい、この写真は野々村さんと出会っていなければ撮れていません。お兄さんが気づかせてくたんです。僕が忘れていた大切なことを」
「えっ? 俺、何か言いましたっけ?」
「私も知りたい、兄は何を言ったのですか?」
「無心になれと」
深田はいつの間にか、写真家としての原点、つまり、写真が好きだから撮っているという自分を忘れ、売れる写真家になろうとしていたことを琴乃に話した。それを公平が思い出せてくれたのだと。
琴乃は純粋に写真をについて力説する深田に興味を持った。
「野々村さん、こんな可愛い妹さんがいらしたんですね」
「もう、がさつな奴でして。だから彼氏もできないんですよ。それにしても深田さん、よかったですね。いよいよ写真家深田幸樹、メジャーデビューですね」
「とんでもないです。まだまだですよ」
そういいながらも深田は琴乃の動きを目で追った。
写真の近くまで歩み寄っていた琴乃が誰に聞かせるわけでもなく囁くように言った。
「この鳥、本当に、飛んで行っちゃいそう」
三枚のカワセミに目を奪われている琴乃を深田は見つめていた。
三枚のカワセミの両側には花を添えるように藤堂良枝の油絵が展示されていた。それは野川の土手に咲く野花を揺らす風の清々しさを感じさせる絵であった。
そして、その絵は『風水の神』と題されていた。
「先生、個展おめでとうございます」
藤堂夫妻に挨拶していたのは東京旬版社の社長、田辺洋一だった。田辺は藤堂が駆け出しのカメラマンだった頃からその才能を認めてバックアップしてきた。藤堂の最初の写真集も東京旬版社から出版された。『驚異の大自然×藤堂保弘の世界』は自然を撮った写真集としては異例の部数を売り上げ、当時担当編集者であった田辺は社内で一目置かれる存在となった。今回の個展でも後援企業の一社に名を連ねていた。
「田辺さん、わざわざお越しいただきありがとうございます」藤堂が頭を下げた。
「良枝先生もますますご活躍ですな」田辺は夫人に対する敬意も忘れなかった。
「田辺社長のお陰ですわ」
「そろそろ日展ですが、制作の方はいかがですか?」
「はい、この個展で展示させていただいております。中央展示室にございます」
藤堂良枝は奥の展示室の方を示した。
「そうですか、では後ほどゆっくり拝見させていただきます」
良枝は田辺に挨拶し、美大の教え子とその場を離れた。
「田辺さん、ちょっと紹介したい者がおるのですが」
藤堂は奥の展示室に案内して歩を進めた。田辺は藤堂の作品を一点一点見ながら奥へと進んだ。どの作品にも心打たれて、田辺は新たにこの個展作品の出版を考え始めていた。会場中央の展示室にいた深田は、藤堂の姿を見つけると歩み寄って頭を下げた。傍らで公平が「藤堂先生ですね」と小声で確認してきた。深田は小さく頷いた。
「深田、ちょっと。こちらは、東京旬版社の田辺社長だ」
「田辺です」
「深田幸樹です。いつも大変お世話になっております」
深田はひと月前の木村とのことを思い出し、何と挨拶していいか迷った。
「勉強になればと編集長の吉野君に何か撮影の仕事があれば回してやってほしいと頼んでいたのです」藤堂は自分が口利きをしたことを説明した。
「そうでしたか、今回は藤堂先生のアシスタントですか?」
「いいえ、今回は彼の作品も展示しています。ぜひ、見てやってください。将来、おたくのグラフ専属カメラマンにしていただけるとありがたいと思って育ててきたのですが」
そう言うと藤堂は深田の作品『確信の出発ち』を紹介した。
「確信のたびだち、ですか。やあ、これは素晴らしい。藤堂先生の魂が乗り移ったような作品ですね。この写真からは勇気を感じる。実に素晴らしい」
「とんでもございません。お恥ずかしい限りです」
深田は恐縮した表情になったが、しばし田辺は深田の作品を見つめた。そして言った。
「うん。いける。この感覚は簡単に撮れるものではない。深田さん、来週、社の方にお越しいただけませんか。グラフの専属契約について詳細をお話しさせてください」
「やった!」
その話を隣で聞いていた公平がこぶしを握って思わず言った。
「いやいや、この写真はおたくの編集から駄目出しを食らった作品ですので、まだまだ専属なんて無理でしょう」
藤堂は田辺の性格を分かっていたので、敢えて多くを話さなかった。
一瞬田辺の顔色が曇った。しかし、田辺は一言、そうでしたか、と答えただけだった。藤堂は田辺が深田の写真を認めたことだけで満足だった。
「藤堂先生、それでは最終日までご盛況をお祈りしております」
深く頭を下げ田辺は会場をあとにした。
「先生、ありがとうございました」
深田は藤堂の意思を理解して礼を言った。籐堂がポンと深田の肩を叩いた。
「あのー」公平が申し訳なさそうに声をかけた。
「ああ、先生、こちらが野々村さんです。先日お話したこのカワセミの恩人です」深田は公平を藤堂に紹介した。
「ああ、あなたでしたか。深田の目を覚まさせてくださったのは。ありがとうございます。あなたは深田が写真家として大きな殻を抜け出すことができた恩人です」
藤堂が頭を下げた。恐縮と緊張で公平は慌てふためいた。
「いえいえ、私は何も。ただ、深田さんのカワセミの写真に感動して、あの写真を撮ったその場にいただけなんです。こちらこそ藤堂先生にお会いできて光栄です。先生の『驚異の大自然』、買わせていただきました。感動しました。写真がこんなにも人の心を動かせるものなのだと初めて分かりました」
「そうですか。それはありがとうございます。そのようにお褒めいただき恐縮です」
「他にも『匠 職人の心』も『日本の美』も拝見しました。私は写真については何も知識がないのですが、とにかく心に響きました」
公平は籐堂と会えたことに興奮していた。
「ありがとうございます。野々村さんはこの写真の野川の近所にお住まいとか。実は私もその昔、調布にしばらくいたことがあるのです。幼い頃、姉と野川で遊んだことは覚えています。戦時中のことです。空襲がひどくなり、神田に住んでいた姉と私は調布の知人の家に預けられました。その後、田舎の親戚を頼って移り住んだのですが、調布には何か思うところがあります」
「そうだったのですか。どの辺りに住んでいらっしゃったのですか?」
「それが、深田がこれを撮影した場所のすぐ近所だと思うのです。何かの因果かもしれません」
藤堂の話に公平も少なからず縁を感じるのであった。
「調布辺りもかなり大きな空襲があったと私も最近ある方から教えていただきましたが、藤堂先生も大変だったのでしょうね」
公平は菊池千鶴の話を思い出して言った。
「野々村さん、お時間ありますか? よろしければこの中の喫茶店で少しお話しませんか?」
意外な藤堂からの誘いを公平は喜んで受けた。
「/あのー、妹さん」
深田は遠慮気味な声で琴乃に声をかけた。
「はい、あっ、私、琴乃と言います。野々村琴乃です」
琴乃は改めて自己紹介をした。
「琴乃さん、よろしければ藤堂先生の展示作品の説明をしましょうか」
深田は恥ずかしそうに誘った。
「はい。ぜひお願いします。お兄ちゃん、深田さんに案内していただくわね」
琴乃は兄の返事を待たず深田と歩き始めた。
「吉野」
田辺が編集部に下りてきて声をかけた。
「社長、どうされたんですか? 呼んでくだされば伺いましたのに」
編集部の現場に社長が来ることは滅多にないことなので吉野も他の部員も一瞬緊張した様子を見せた。そして吉野の席の脇にある打ち合わせ用のソファに座った。
「社長、あちらへ」
吉野は応接間を示して促したが、田辺は、「ここでいい。たまには現場の空気も吸わないとな」と笑みを浮かべながら足を組んだ。
「お前、藤堂先生から依頼されて若手のカメラマンを世話しているそうだな」
「ええ、ウチが受けた広告代理店からの撮影がある時は使っているようです。担当は木村に任せていますが、どうかしましたでしょうか」
吉野は社長が何を言いたいのかを探るかのように聞いた。
「お前はそのカメラマンの写真を見たことがあるか?」
「申し訳ございません。目にしているとは思うのですが、それが誰のものなのかは特に気にして見てはおりませんでした」
そこに副編集長の木村が席に戻ってきた。
「おい、木村」吉野が呼んだ。
木村は吉野と一緒に社長が座っているのに気が付き、足早にやってきた。
「はい。何か」
多少緊張気味に返事をした。木村が社長と直接話すことは特定の会議で報告をする以外にはまずなかった。
「お前に任せている若手のカメラマン、あの藤堂先生から頼まれた深田君、最近どうしてる? 仕事は回してあげているよな」
「はい。最近はひと月くらい前に写真を持ってきましたが、あまり使えそうもないのでいつものように、『小遣い買い』をしてやろうとしたのですが、誰の写真かも分からない使い方はしてほしくないとか生意気なこと言いまして、そんなに甘いものではないと一喝してやりました。それから来ていませんね。まあ、教育的指導です。来ればまた仕事は回すようにしますのでご安心ください。ははは……」と笑いながら説明をした。
「ほう、使えない写真だったのか。君はそれをちゃんと見たのか」田辺が聞いた。
「はい。見ました。なんか鳥の写真でした」
「ちゃんと見たのに、何の鳥か覚えていないのかい?」
田辺の意表を突いた質問に木村は一瞬狼狽の様子をみせた。
「すいません。他にも編集中のグラフに追われていまして、ちょっと覚えておりません。ただ、使えそうにないものだったことは覚えております」木村は自信を持って答えた。
「そうか。ところで君はグラフの仕事は何年やっている?」
田辺はあくまでも平然と穏やかに尋ねた。
「そうですね、十五年くらいになります」
「それじゃあ相当数の写真を見てきたわけだ」
田辺はわざと感心するように言った。
「はい。ですから写真が使えるかどうかは判断がつきます」
「分かった。ご苦労さん」そういうと田辺は席を立った。
数日後、人事異動が発表された。
『木村作治 富山支店 文章保存センター管理課長を命ずる』
藤堂は公平と美術館にある喫茶店に入った。そこは吹き抜けになった美術館の三階に浮かぶように存在する開放的なところだった。
「先生、お忙しいのではありませんか。私などとこのような時間を取られてよろしいのでしょうか?」
公平は初めて会った自分を何故誘ってくれたのか不思議でならなかった。
「いや、こちらこそお引き止めしてしまい申し訳ない。深田に影響を与えた野々村さんとちょっと話をしてみたかったのです。実は今回の個展を開催するにあたって、家内と若手の作品も選んで展示しようということになり、ああした展覧にしました。美大生の油絵作品が多いのですが、将来、一人でもそれを極める人間が育てばという思いからです。写真展示に関しては深田の作品だけです。深田のあの写真には、今までの作品とは違うものを感じ、心打つものがありました。あの作品を撮る時に野々村さんの一言があったと伺いました」
「私も感動しました。なんと言うか、あのカワセミが何かを言っている、カワセミの考えていることが伝わってくる、そんな気がしました。さあ、出発するぞ!って言っていると感じました」
公平は深田の写真の感想を思ったまま口にした。
「野々村さん、写真家にとってそれが一番の賛辞です。失礼ですが野々村さんは写真のプロではない普通の人です。その普通の人に見た目だけではなく、そこから何かを感じさせる力がその作品にあるかないか、なのです」籐堂はそう定義付けた。「深田はよい人と出会えた。これからも付き合ってやってください」
籐堂は軽く頭を下げた。
「もちろんです。私こそ深田さんにお会いできて嬉しいです。これも母の導きかもしれません」
「お母さんの?」
「はい。今年の春に母を癌で亡くしました。野川には母と散歩した思い出があって、あの日も……」と公平は深田との出会いを説明した。
「そうだったのですか。それは残念なことで。でもお母様のお陰でいい出会いができました。ありがたいです。ところで、野々村さんは調布のご出身なのですか?」
籐堂は話を変えた。
「はい。生まれも育ちも調布です」
「そうですか。先ほども申し上げましたが、私も幼い頃、その野川の近所に住んだことがありました。住んだと言ってもほんのわずかな期間です。深大寺や野川には姉とよく行きました。不思議とそのことは今でもはっきりと記憶にあります。姉とよく川遊びをしました」籐堂は幼い頃の話をし始めた。
「お姉さんと一緒に調布にいらしたのですね」
「はい。そうなのです。その姉が最近、昔のことをよく話すようになりました。私もおぼろげに覚えているのは戦火の中を姉が私を背負って逃げてくれたことです。そのお陰で私はこうして生きていられるのですが、若い頃から写真にのめり込み好き勝手に生きてきました。そんなわがままな私を、姉は、戦争時代は何も自由がなかったからと許してくれました。父親は戦死し、母も病弱で戦時中に結核で亡くなりました。だから姉が親代わりでした。私が写真に取りつかれたのには、ある出来事があったからなのです。戦後アメリカの進駐軍は田舎町までジープでやってきて人々を怖がらせました。ある日、私が山にきのこを採りに行った時のことです。近くでクルマが走ってくる音が聞こえました。やがて一人のアメリカの将校が山の中に入って来ました。そして私を見つけると近寄って来ました。怖かったです。子供だった私は殺されるのかと思いました。しかし、その将校はどう見ても日本人の顔つきをしていました。私はまだ進駐軍という存在が理解できる歳ではなく、アメリカの将校が何故日本人なのか分かるはずもありません」
「チョット、ユー」
その将校は保弘に声をかけた。保弘は恐怖で声も出ず、じっとその将校を見つめていた。まだ若いその将校は笑顔を見せて近寄ってきた。
「ダイジョウブ、ナニモシナイヨ。チョットオシエテホシイダケ」
この人は、何人なんだ? 日本人なのか? でも言葉がおかしい。保弘は何が何だか分からなくなっていた。
「チチブレンザンハ、ドコニアリマスカ?」
「秩父連山はこの山の一番高いところに行けば見られるよ」
保弘は勇気を振り絞って返事をした。
「ドウヤッテイキマスカ? ロード、アリマスデスカ? トオイ?」
「俺、近道を知っているから連れて行ってやるよ」
保弘は自分でも意外なことに、その将校の道案内を買って出た。
「オー、サンキュー。オネガイシマス」
保弘はその将校を連れて獣道を登った。途中、きのこを摘んでは竹籠に入れる保弘を将校は興味深そうに見ていた。
「マッシュルーム? コレ、タベル マスカ?」
「そうだよ。これうまいんだ。姉ちゃんから教えてもらったきのこだけ取っているんだ。他のきのこは、ひょっとしたら毒きのこかもしれないからね」
「オー、ソウデスネ。ドクハタベラレナイネ。ハハハハ……ユーハスゴイデスネ」
片言の日本語で将校は愉快そうに話した。
「マダデスカ?」
「疲れたの? もう少しだよ」
保弘はアメリカ軍のくせに情けない奴だと思った。
先に頂に着いた保弘が後方の将校に声をかけた。
「着いたよ、早く上っておいでよ」
息を切らせながら若い将校がたどり着いた。へたり込むように腰を落としたが、目の前に広がる秩父連山を見た途端、すくっと、立ち上がった。将校は言葉を飲んだ。
「ワォ、グレイト! アメージング。ウツクシイデス」
「ねえ、おにいさん、どこから来たの? 日本人?」
「ノー、ワタシハアメリカカラキタネ。ワタシノナマエ、マイケル、マイケル・ワタナベ。ドーゾヨロシク。キミノナマエハナントイイマスカ?」
「俺は籐堂保弘」
「オーケー、トード。アリガトー。ココハスバラシイ。ワタシノフルサト」
「故郷? だってアメリカから来たんでしょ?」
「イエス、ソウデスネ。ワタシノグランマ、ウーン、ソウ、オバーチャン? ガウマレタトコロデス。ダカラワタシノフルサトデモアルデショ」
マイケルは日系三世のアメリカ人だった。祖母が若い頃に移民として渡米したのだった。マイケルは肩から提げていた布の軍用鞄の中からカメラを取り出し、数枚の写真を撮った。
「それって写真機かい?」
保弘は見たこともないカメラに興味を持った。
「イエス、ジャーマンキャメラハベスト。イチバンデス」
マイケルはドイツ製のライカのカメラを持っていたが、保弘にそれが理解できるはずもなく、マイケルが何を言っているのかが分かるのはそれから十年も後のことである。
「トード、シャシントッテミマスカ?」
マイケルはそのカメラを保弘に渡して構え方を教えた。保弘は初めて手にしたカメラをしげしげと眺めた。ファインダーにそっと目をつけ息を飲んだ。初めてのシャッターを押した。右の人差し指に伝わるシャッターのなんとも言えない柔らかい感触が伝わった。この瞬間に自分の見ている景色が自分の手によってこの小さな箱の中に収められる。保弘はそう思うと全身が震えた。
「その日系のアメリカ人将校はその後、私を家までジープで送ってくれました。老いた叔母と姉は驚き恐怖を感じていました。保弘、離れなさい、こっちに来なさいと。しかし、マイケルはとてもいい人でした。戦争という悲しい出来事によって祖国日本を訪れることになった複雑な思いを私たちに語ってくれました。叔母と姉は私が摘んできたきのこを鍋にしてマイケルに振る舞いました。彼は何度も何度も美味しいと言って泣きながら詫びていました。それは同じ日本人の血が流れているのに爆撃を行ったことへの懺悔だったのだと思います。その後、帰国したマイケルから手紙が届きました。その中には私が生まれて初めて撮った秩父連山の写真が入っていました。お世辞とは分かっていますがマイケルからは、キミには素晴らしい写真センスがあると書かれていました。私はあの初めてシャッターを切った感覚を忘れることができませんでした。それが私を写真家にさせるきっかけになりました。
最近、姉は調布が出てくる夢を見るようになったと言います。それは優しい母のような人に抱きしめられる夢だそうです。その人が悲しい顔をするのでどうしたのと聞くと、その人が何かを話すのに、それが分からず、そこでいつも目が醒めるのだそうです。一度、姉を調布に連れて行こうと話をしたことがありましたが、何故か姉は調布には行けないと言い、それ以上のことは話しません。 ああ、ごめんなさい、なんでこんな話になったのでしょうね。深田が野々村さんとは偶然とは思えない出会いだったというものですから、ちょっとお話をしたかったのです」
籐堂は当時の思いを語り終えると公平を誘った理由を付け加えた。
藤堂の話は公平の胸を打った。同じ日本人でありながら敵として戦わなくてはならなかった人がいたということを、平和な生活が当たり前となっている現在では忘れられていると公平は感じるのであった。
深田に一つ一つの作品を丁寧に説明された琴乃は、一生懸命に話す深田に魅かれ始めていた。
「これが今回の個展の最後の籐堂作品です」
それは、生まれたばかりの赤ちゃんの写真だった。どこからか元気な泣き声が聞こえてきそうなその作品に琴乃は感動の涙が止まらなかった。琴乃は母を亡くしてから生と死に関して特に敏感になっていたのかもしれない。深田は何も言わずそっとハンカチを差し出した。
「この赤ちゃんはきっと、多くの人の祝福を受けて生まれてきたのでしょうね。春に母を亡くしました。初めて身近で死と直面しました。悲しかったです。父が亡くなった時はまだ幼く何も覚えていません。母の死を納得できない状態が続いていました。でも、この赤ちゃんの写真を見て何か吹っ切れた気がします。母の死は生命の誕生のためだったような気がします。あっ、ごめんなさい。こんな話をしてしまって。兄には言わないでください。兄には面倒をかけてきました。これ以上、兄に私のことで心配をかけないようにしようと思うのですが、いつも頼ってばかりです」
「琴乃さんは優しい方なんですね」
深田は琴乃が愛おしく思えた。こんな感情を持ったのは初めてだった。
「そろそろ行きましょうか。お兄さんが待っていますよ」
深田はもっと二人でいたかったが、籐堂と一緒にいる琴乃の兄のことを気遣った。
展示室を出た二人は三階にある喫茶店に向かった。
「先生、やはりこちらでしたか」深田が琴乃を案内しながら店内に入ってきた。
「ああ、いかがでしたか?」籐堂が琴乃に聞いた。
「はい。とても感動しました。最後の赤ちゃんの写真には震えて泣いてしまいました」
「そうですか。ご兄妹揃ってそんなに感動していただけるとは、写真家冥利につきます」
琴乃は手に深田のハンカチを持ったままであることに気が付いた。
「あっ、私ったら。ごめんなさい。今度、洗ってお返しします」
「構いません」と深田はハンカチを受け取ろうと手を伸ばしたが、すぐにその手を引っ込めて言った。
「では、また会ってもらえるんですか?」
「はい」琴乃も嬉しそうに答えた。
「お兄ちゃん、何か言いなさいよ。さっきから黙ったままで」
六本木ヒルズのレストランで二人は食事をしていた。美術館を出てから琴乃はどこかうきうきしていた。一方、公平は籐堂との話が気になり、いろいろと思いを巡らしていた。籐堂のお姉さんはなんで調布に行けないと言ったのだろうかと。レストランは琴乃がインターネットで調べていたアジアンフードの店に入ったが、琴乃の注文に何を聞いても公平は、うん、それでいいよ、と言うだけだった。
「えっ? 何か言ったか?」公平は琴乃の怒る声に我に返った。
「何かじゃないわよ。ずーっと黙ってるか、ブツブツ独り言ばかりで。気持ち悪い!」
琴乃はせっかくの六本木での食事なのに、と怒った。
「そうだな。すまん。さっきの籐堂先生の話を聞いてさ、俺たちって戦争のことをあまりにも知らないと思ってつい考え込んでしまった。ごめん、ごめん。ところで琴乃、お前さ、深田さんのことが好きなのか?」
琴乃は兄にいきなり不意を突かれ、飲んでいたカンパリソーダを噴き出しそうになった。
「な、何を言ってんのよ! お兄ちゃんは。今日初めて会った人じゃないの」と言いながらも顔が熱くなるのを抑えられなかった。
「違うのか。あんなに舞い上がっているお前は、母さんが死んでから初めて見たから、てっきり気に入ったのかと思ったよ」
「そん、そんなことないわよ」今度は琴乃が黙った。
「深田さんは何だかお前のことを気に入ったように見えたぞ」
「そんなの気のせいよ」琴乃は鼓動が早まるのを感じた。
「まぁ、いいや」
公平は確認できたと納得するように話を変えた。
二人は母和美が逝ってから、初めて何かが吹っ切れたように楽しい時間を過ごすことができた。食後のコーヒーを飲んでいる時だった。携帯電話の着信音が鳴り始めた。琴乃の携帯電話だった。それを見た琴乃は親にいたずらを見つけられたような表情になると席を立った。しばらくして戻ってきた琴乃が言った。「お兄ちゃん、先に帰ってくれる?」
「おう、構わないけど、お前、どこかに行くのか?」公平は探るように尋ねた。
琴乃はちょっと視線を窓の外に向けたが、すぐに公平を見て言葉を選んで言った。
「うん。今、お友達からの電話で、たまたま六本木にいるから、ちょっと会おうかって」
公平は母和美の言葉を思い出していた。あんたは嘘が下手ね。琴乃の隣に笑った母の顔が浮かんだ。
「そうか。あんまり遅くなるんじゃないぞ」
「分かった。ご馳走様。お兄ちゃん」
琴乃は嬉しそうに席を立ち、店の出口に向かった。公平が琴乃の背中に向かって言った。「深田さんに、よろしくな」
「うん。分かっ……えっ?」
琴乃はなんで分かったのと言わんばかりに振り返った。公平は席から笑って手を振った。見破られた琴乃も照れ笑いをしながら手を振り返し小走りで出かけて行った。
いい組み合わせかもしれないな、公平は琴乃もそういう歳になったのかと思いながらコーヒーを飲み干した。
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