本稿は恩師である芝田光男氏が私に託された「郵船時代のこと」「浪人・早稲田大学時代」という題名の自叙伝の一部です。どんな時も正義を重んじ、自分を信じて人生を全うされた芝田さんの足跡です。参考にして頂ければ幸いです。

1. ポートフォーリオ理論

 早稲田での学園生活の楽しみの一つは、各種のスポー ツ観戦である。大学ラグビーの対抗戦グルー プは、明治大学全盛時代であり、早稲田は2部に転落するのでは、と言われるほどの低迷期に入っていた。だが、野球は、学生野球の語り草となっている昭和36年の「安藤の早慶戦6連投」があって、大学内は沸きに沸いていた。

入学当初、早稲田応援部の団長が、横浜商業高等学校同窓の志沢君であり、私は彼に入場券を融通して貰っていたが、安藤投手の連投が始まった 2 戦以降は、切符の入手が難しくなってしまった。私は家のテレビに釘付けになっていたが、 11敗後の3戦目からは、勝っても引き分けても、私はストー ムの舞台である新宿武蔵館前に駆けつけていた。そして6戦目の優勝では、連日の新宿通いで疲れた私は、新宿のストームの後の祝賀行進で酔いが全身に回って泥酔状態となり、挙句の果てに大学構内の大隈銅像の下で寝込んでしまった。だが、巡回の老警備員達は、親切にもこの羽目外しの不埒者が、風を引かないようにシートまで掛けてくれていたのである。

3年になると、ゼミナール入会希望の学生は、希望ゼミの教授の面接を受けて、その一員となる。私は、金融論ゼミを主宰する「望月教授」の面接を受けたが、教授の「2年間何を勉強してきたか」の問いに、私は「マルクスを(かじ)りました」と答えた。すると、教授は憮然として「私は近経学者だ」と言った。私は、ひと呼吸おいて 「マルクスを社会哲学として勉強してきたので、この先の近代経済学の勉強になんら支障をきたすものではないと思います。」と反論した。教授は、苦虫を嚙みながら暫く考えて、渋々入会を認めてくれた。

だが、初顔合わせの席で、教授は最新の金融論である「 Portfolio」の原書  ‘’ Money in a theory of Finance by John G. Gurley and Edward S. Saw ’’ を教材にすると言われた。私は、このゼミで近代経済学の哲学を学ぶことを期待していた。しかし、教授はいきなり当時の金融関係者の間に拡がり始めたポートフォーリオ理論を取り上げるという。そして、我々を戸惑わせたのは、教授が、ガレーショウの原書をいまだ読み終えていないことであった。

慶応のゼミでは、教授は学生の手を取って教えるというが、早稲田では学生の自主性を尊重するといいながら、実態は放りっぱなしである。 (ひと)(ころ)巷間(ちまたかん) 「学生まあまあ教師三流」の早稲田と囁かれていたが、私は、この金融論ゼミもその類なのではと思った。

そして私達ゼミ生達は、殆ど不在の教授の部屋で、今まで聞いたことのない経済用語を辞書を引き引きしながらなんとか読み進んでいったが、夏休みの直前頃から就職活動の為か、週 一のゼミにも学生は、一人欠け二人欠け、最後は吉田定吉君と私の2名だけなってしまった。今思うとこの論文は、23年かけて社会を実体験すれば難なく理解できる代物だろうが、2人だけで読むポートフォーリオ論はとにかく味気なかった。だが、このゼミは、私に吉田君という得がたい友を与えてくれた。その後、彼は、三菱銀行に入社し、長い海外勤務を終えて定年退職となったが、幸いにも彼の家は我が家に近く、時折互いに誘い合っては、上大岡周辺の居酒屋で、一献傾けながら旧交を温めている。恐らく生涯付き合うことになるだろう。

読後、金融が、経済の血液であることは間違いないが、 Portfolio 論の行きつくところは、資本家の利益の最大化のための金融商品選考の技術論であり、まかり間違えれば 一部の資本家独り勝ちの優勝劣敗の武器となり、実体経済を台無しにしてしまいかねない理論だと私は思った

近代経済学を学ぶに当たって、私はそれを成立させている哲学や理念を知ろうと志をたてたが、Gurley and Saw の著書からは、その欠片すら見出せなかった。(私が、40年前に学んだPortfolio という資産の最適配分論は、今や怪しい金融工学を駆使するデリバティプと共に利益のみを追求する Fund を援護する理論と成り果てている。そして、その流れは経済のグローバル化を推し進しめ、進出国の企業再生を近代化の名目の下に、文化の画一化を推し進めているが、その潮流は、きっと大きな問題に発展するに違いない。私は、金融論ゼミを選考したことを悔いている。

(次回につづく)