本稿は恩師である芝田光男氏が私に託された「郵船時代のこと」「浪人・早稲田大学時代」という題名の自叙伝の一部です。どんな時も正義を重んじ、自分を信じて人生を全うされた芝田さんの足跡です。参考にして頂ければ幸いです。
13. 奨学金と貿易学会
2年になって早々、私は大学生活の余裕を得るために大隈奨学金と日本育英会の奨学金を申請した。しかし、早稲田には、地方出身の苦学生が沢山いることや、我家の総所得が基準以上であったことから、申請は却下されてしまった。
困惑した私は、貿易学会の山本さんという先輩に安定したバイトはないでしょうかと相談した。すると、1週間ほど後に、彼は私の生活を一変させる思わぬ幸運を運んできてくれた。彼の指示は、近代経済学ゼミナールの 「林文彦教授」のもとに直ぐ行けということであった。早速、研究室を訪れた私に教授は、この場で自ら Presentation しなさいと言われた。
私はこれまでの経歴、目指す学問の方向、今の経済状態などを率直に語った。黙って聞いていた教授は、自分の推薦状と大学1年次の成績表を持って、直ぐに日本橋の紙問屋「中井商店(現日本紙パルプ商事株式会社)」の担当役員の方に会いに行きなさいと言って下さった。
教授は全てを任されてしているようで、会社の面接は形式的なもので即合格であった。同社の奨学金は、授業料を直接大学に支払うもので、返済は不要、卒業後の紐つけは一切なし、受給者にとってこれ以上望めない好条件のものであった。これによって私は卒業までの3年間、授業料を一切心配せずに済んだ。
書籍代などの諸々の学園生活に必要な経費は、今まで通りの百貨店のバイトの収入で賄えるので、余裕のある学生生活を送ることができる条件が、曲がりなりにも整うことになった。やはり持つべきは友であり、先輩であり、師であり、戦後になっても中井商店のような篤志家なる御仁が、まだ世にいたことを知った。
不幸もそうだが、幸運というものも重なるから不思議である。奨学金受給決定の後、間もなく、大学の同輩や先輩を介しての家教師の依頼が次々と持ち込まれたのである。3ヶ年に及ぶ家庭教師の依頼は、いずれも中堅企業の経営者の子弟達で、中学入試に備えるためであった。私はスパルタを条件に引き受け、1、2年後には総て中学合格に導いてやった。
家庭教師の報酬は、デパートのバイトよりも数段良く、私は長期間拘束されるアルバイトから解放され、貿易学会の会合や合宿に積極的に参加することが可能となり、俄然学生生活が楽しいものになった。
印象に残る合宿は、奥日光湯元、志賀高原発哺、十和田湖発荷峠等々であったが、どの合宿も40人ほどの参加者で、学生の出身地も北海道から沖縄までの各地方に跨っていた。
合宿では、安酒を酌み交わしながら夫々の生い立ちや、地方の風習・問題などを語り合ったが、我々都会の学生と田舎出の学生達の考え方がこうも違うのかと驚くこともあり、議論の果てに取っ組み合いになることもあった。が、それも肩を組んで歌う「都の西北」で、またの再会を誓い合う思い出の ひとコマとなった。
3泊4日の十和田湖発荷峠の合宿では、少人数に分かれてのハイキングで、女子学生の座ったベンチが腐っていて、崖下に転落して骨盤を強打する事件が起きてしまった。何処から聞きつけたのか、国立公國管理事務所の管理の杜撰さを取材するために新聞記者が大勢で我々の宿所に押しかけてきた。私は新聞記者、管理事務所との折衝を担当する羽目になり、翌年は学会の渉外担当役員に推挙されたが、それは左翼学生らの握る本部予算の有利獲得も役目であった。そして冷たい目にさらされながらも、現状維持を頑張って獲得した。
さらに3年生の冬の京都大学での全国ゼミナール大会出場交渉も私の役目であった。我々は 「後進国の経済発展」をテーマにサークルとして唯一出場が決まった。割り当てられた宿泊先は南禅寺の塔頭の一室で、本番での東大や京大のマル経ゼミとの論争を想定しながら、夜が明けるまで応答の準備を綿密に繰り返していた。だが、今以て懐かしく思い起すのは、そんな検討した内容よりも、熱い般若湯が欲しいほどの厳しい古都の底冷えであった。
横浜商業高等学校の貿易実務の教科書は、当時、早稲田の名誉教授であった上坂酉三先生の著書であった。私は、貿易学会の総会で受講を提案し了承された。幸いにも約10名の応募があった。私は安部球場の西裏のお宅を訪れ、かつて、先生の教科書を基に横浜商業高等学校で貿易実務実習授業を受けたことを話し、月1回程度、早稲田の有志に授業をと懇請したところ、先生は「そうですか、Y校で」と頷かれたが、「でも歳だからね」と躊躇された。しかし、先生の奥様が「折角だから」と助け舟をだして下さり、我々の要請を受けてくださった。然しその後、先生は体調が優れず、僅か3回の講義で終了となってしまった。しかし、教科書とは別の、あの篤実な老先生との再会は忘れ難い思い出のひとつとなった。
こうした楽しい思い出を刻んだ貿易学会は、5年前、伊豆高原で同窓会を持ったが、銀行やメーカー に就職した者が多く、商社は私一人だった。変り種として大学教授も一人いたが、夫々は在職中である事を忘れ、懐かしい学会での思い出に眠るのを忘れて語り合った。その熱い交わりは年賀の交換などを通じて今も変わりなく続いている。
大隈講堂では、しばしば、国内外の多方面の分野で活躍する先輩や外国人を呼んで講演が行われているが、私の最も印象に残っている講演は、当時の米国司法長官 Robert Kennedy の講演である。彼は暗殺されたJ .F. Kennedy 元大統領と早稲田との約束を果たすべく、昭和37年に夫人同伴で訪日してくれたのである。講演内容は、会場の騒音で聞き取れなかったが、講演が終わると夫妻は学生らと肩を組み合って「都の西北」を合唱した。学生達の多くは、米国の政治家のなんとも率直で明るい姿を目の当りにして感動していた。大衆は指導するものと思っている日本の政治家と違って、彼らは何時如何なる時でも民衆に溶け込もうと行動しており、私はその民主主義の成熟ぶりを羨ましく思った。
(次回につづく)
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