本稿は恩師である芝田光男氏が私に託された「郵船時代のこと」という題名の自叙伝の一部です。どんな時も正義を重んじ、自分を信じて人生を全うされた芝田さんの足跡です。参考にして頂ければ幸いです。
11. 騒然とした社会状況での早稲田入学
私の入学した昭和35年は、日本各地で反米基地闘争、安保問題、さらには労働争議などが頻発し、社会は騒然となっていた。その影響からか、大学構内は革マル派や中革派などの「革命」「反米」「安保断固阻止」の立看板が林立していて、通路も足の踏み場もない状態であった。そして扇動家達のがなりたてるマイクの声は否応なく学生や教授達を悩ましていた。
その年の1月から始まった三井三池争議は、その後全学連の介入によって益々先鋭化し、恒例化した春闘の始まる頃は、「総資本対総労働」の政治闘争へと変化し始めていた。そして私は、国鉄(現JR) 高田馬場駅頭で、その凄まじい闘争を目の当りにすることになった。
無賃乗車、車内の器物毀損などの無法を行いながら、逞しい日焼け顔でホームを降りた三井三池労組員達は、カンテラ付のヘルメットを被り、怒声を張り上げながら改札を腕力で通り抜け、街頭に出ると、「安保反対」のジグザグデモを繰り返し、シャッターなどを壊す被害を付近の商店街に与え、再び電車に乗って何処かへと行ってしまった。しかし、その突風のような暴力行動は、果たして何の示威であったのか私には未だに分からない。
前年から始まっていた日米新安保条約の国会批准めぐる騒動は、全学連および労組などの羽田空港突入によって、保守政党対左翼政党の対立へと拡がり、その解決は抜き差しならないものとなっていた。
だが、昭和35年5月、岸内閣が安保条約批准を強行採決したため、それまでの安保反対運動は、民主主義養護を標榜する一般市民やノンポリの一般学生達を巻き込んで「岸内閣打倒」運動へと変質していったのである。
早稲田大学商学部の教室では、研究一筋の経済史の入交老教授さえもが、『諸君!授業どころではない、民主主義擁護に国会デモに加わるべきだ』と叫ぶようになっていた。それ迄、全学連の破滅的な革命路線に批判的であった私は、老教授の熱弁に動かされ始めてデモに参加した。
それは「6. 15.事件」と特筆されるデモで、東大生樺美智子さんが圧死した事件であった。その夜の国会周辺を回る私達のデモが3周目の参議院前にさしかかった時、勇ましい軍歌を流す一台のトラックが猛スピードで一般学生のデモ隊列の中に突っ込んできて、あちこちで逃げ惑う女子学生達の悲鳴が上がり、参議院前は大混乱に陥ってしまった。
だが凡そ10数分後、隊列を整えたデモが衆議院前に進んだ時、再び軍歌をがなるもう一台のトラックがデモ隊めがけて突入を始めた。
だが、警官隊はそれら無法を制止する気配さえ見せない。それを警察の陰謀と弾じたリーダーのアジ演説にデモ隊の興奮は極度に高まり、デモの隊列が国会議事堂正門前に着いた時、爆発するようにデモ隊の先頭が門扉を乗り越えて国会敷地内に飛び込んでいった。
その乱入が、左翼過激派の策謀なのかどうかは定かではないが、事態はもう止めようがない。デモ隊の前列辺りにいた私も、後ろからの圧力に抗しきれず、国会敷地内の奥へ奥へと押されていった。だがその時突然、機動隊員が建物の影から現われて逃げ惑う群集に向かって、警棒を手にした機動隊員が、それを振り下ろし始めた。私は眉間を割られたが、私の傍では、機動隊の警棒に倒れた女子学生の上に後からの学生達が次々と覆い被さっていった。
そして「やめて!」の叫び声は数秒後には苦しい呻きとなり、やがて消え入るようなか細い声に変っていった。逃げろ!の声に、デモ隊は蜘蛛の子を散らすように逃げたが、私は眉間から流れる血を手拭で押さえながら、国鉄新橋駅に向かって懸命に走った。検問を抜けて自宅に帰って聴いたラジオは、樺美智子さんという東大生の死亡を報じていた。
無論、あの呻き声が、樺美智子さんだという確証はないが、私は、あの状況から判断して、あの声は樺さんだったに違いない、と今でも思っている。
(次回につづく)
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