本稿は、私の恩師である芝田光男氏が私に託された「郵船時代のこと」という題名の自叙伝の一部です。どんな時も正義を重んじ、自分を信じて人生を全うされた芝田さんの足跡の一部です。参考にして頂ければ幸いです。

 

1.はじめに

現在、私は、イースタン・カーライナーという中堅の船会社の監査役に就いている。だが、私も(よわい)67であり、老醜を晒さずに済むにはそろそろ潮時かなぁと思っている時、社長からもう一期続投の打診があった。私は熟慮の末、70歳までやりましょうと答えたが、その時、ふと若き日の自らを振り返ってみる気になった。早々引っ張り出したアルバムは埃だらけで、写真は色褪せてセピア色になっていたが、結果、平々凡々であった私の人生にも、僅かながら子や孫達に伝えておく事があることに気付き、それらを書き留めて置くことにした。

1957年の秋、私は丸の内の日本郵船本社で入社試験を受けた。試験は全国の指定商業高校から約100人の受験者が来ていたが、ラグビー漬けの学校生活だった私には、時事経済英語の和訳が兎に角難しかった。知る限りの単語を繋ぎ合わせて、なんとか記事らしきものに仕上げはしたが、出題中のInflation gap の意訳には自信が持てず、恐らく不合格だろうと家路についた。

だが意外にも、家で待っていたのは合格電報であった。私は、きっと試験官が私の粘りを見ていてくれたのだろうと思った。合格したからには、私はとにかく外国を見てやろうとの一念から、配属前に「船に乗せて下さい」と人事部長に直訴してみた。面白い奴がいると思ったのか、人事部長は直ぐに陸員から海員人事部に身柄を移してくれた。 

私には、幼い頃から猪突のところがあり、母はいつもハラハラの連続であったようだが、今回の船乗りになって外国に行くとの報告に、明治生まれの母は、心配のあまり寝込んでしまった。

 

 

(次回につづく)