綾なす奇跡(ミラクル)

 

その後、美紗子が手掛けた和菓子風のベルギーチョコレート商品は順調に販売実績を伸ばしていた。秋にはベルギーのバレンスタイン社と合弁で銀座に専門店をオープンすることになっていた。美紗子は本社海外事業部からその店の開業準備室に異動となり、開店に向けて忙しい毎日を送っていた。オープンとともに店の支配人兼商品プランナーとなることが決まった美紗子は仕事に対する厳しさと、誰に対しても気配りを忘れない優しさとでプロジェクトメンバーからは大きな信頼を得ていた。

「青木さん、開店セレモニー用のポスターにする商品五種類、どれにしますか?」

後輩社員の中山圭太が美紗子に指示を仰いだ。中山は入社二年目で自ら異動願いを出してこの準備室にやってきた。本社海外事業部時代から美紗子のアシスタント的存在であった。

「ポスターの撮影はいつだったかしら?」

「明後日の夕方四時から恵比寿のスタジオです。カメラマンとの打ち合わせもあるので三時には現地に着いていたいですね」

「了解。KAZUMIの二種類とネージュショコラ、ブランシャルマン、それと、うーん、あと一つ何にしようかな。OK、トワ・エ・モアでいこう。カメラマンさんには基本コンセプトを伝えておいてね」

美紗子はオープンセレモニーの企画書を作成していた手を止めて、中山に指示した。

「青木先輩の選びそうなのをとりあえず十個、先方に渡してあります。ビンゴ! 今の五種類全部入っています」

「さすが中山君ね。ありがとう」

翌々日、スタジオ入りした美紗子はカメラマンとの打ち合わせに入った。

「初めまして。商品企画担当の青木と申します」

美紗子は名刺を差し出した。

「このたびはありがとうございます。深田と申します」

差し出された名刺には「東京旬版社グラフ チーフカメラマン」とあった。カメラマンについては本社の宣伝部が手配していたので美紗子は撮影の当日に直接会うことになっており、事前の面識はなかった。深田はアシスタントを一人連れてスタジオ入りした。

「えっ? 深田さん?」

「はい、どうかされましたか?」

「いえいえ、まさか……」

美紗子は呟きながら琴乃から聞いた彼氏の話を思い出そうとしていた。

「本日はよろしくお願いします」

美紗子は琴乃の話は出さず、ポスターに使うお菓子のコンセプトについて、確認の打ち合わせに入った。そして準備が整い撮影が始まろうとしていた。しかし、どうしても気になって仕方がなかった。我慢しきれなくなった美紗子が切り出した。

「深田さん、失礼ですが、今お付き合いしている女性、います?」

「えっ?」

深田は意表を突く質問に一瞬言葉を失ったが、続けて、はにかんだように肯定した。

「はい」

「間違ったら本当にごめんなさい。ひょっとして、野々村琴乃じゃないですか?」

「えーっ! なんでご存じなのですか?」

「やっぱり、深田さんと言われたので、ひょっとするとそうかなと思いました。琴乃は私の妹なんです。というか、もうすぐ妹になります」

「それじゃあ、公平君の……?」

「はい。野々村公平は私の婚約者です」

その話を中山圭太は背中で聞いていた。

「そうだったんですか」

深田は思いがけない出会いに驚いた。一方の美紗子はその偶然は必然であったのではないかと思った。そして和美がこの部屋のどこかにいるような気がした。おかあさん、いるんでしょと天井を向いて呟いた。

「琴乃のことよろしくお願いします」

美紗子は母親代わりとして琴乃を嫁がせると決めていた。それが和美から託された使命だと自ら決めていた。

「はい。こちらこそよろしくお願いいたします。それにしても奇遇ですね。琴乃さんに叱られないようしっかりとした仕事をさせていただきます」

「あら、琴乃に叱られているんですか? あの子ったら、もう旦那さんをお尻に敷いちゃったのかしら」

「いえいえ、そんなことありません」

深田は自分の失言を必死に否定した。美紗子は琴乃がいった真面目すぎるという意味が分かったような気がした。

「今日は安心してお任せできます」

美紗子は心からそう思い深く頭を下げた。

その日、深田はいつも以上に撮影に集中した。そして食べてみたくなるような商品ポスターが完成したことは言うまでもない。

 

週末、公平は美紗子と熱海に向かっていた。

「ねえ、ねえ」

美紗子は助手席でにやにや何か話したそうに運転する公平の横顔を見た。

「何だよ、何か嬉しそうだな」

「今頃、琴乃ちゃんは彼氏とデートよね。そこで分かっちゃうから公ちゃんにも教えてあげることにした」

「何を」

「あのね、この間ね、新しいお店のポスター撮影を恵比寿のスタジオでしたのよ。それで、宣伝部が手配したカメラマンと打合せをしたんだけど、なんとそれが深田さんだったの」

「えーっ! 本当かよ」

「ビックリしたわ。琴乃ちゃんには深田さんから言うからって。だから私からは言ってないけど、今頃、琴乃ちゃんも驚いていると思うよ」

「そんなことって、あるんだな。 で、どんな感想?」

「琴乃ちゃんを大事にしてくれそう。本当に真面目な人ね。それと贔屓目じゃなくてできたポスターの写真がすごいのよ。本当に美味しそうに、艶やかに、食べてみたいって思わせるような出来映えなの。あの人なら大丈夫。琴乃ちゃんの旦那様にぴったり。合格」

美紗子はすっかり深田が気に入ったよううだった。

「そうなんだよ、すごい写真を撮るんだよ、深田さん。そうか、合格か」

 

琴乃は深田と井の頭動物園にいた。深田の仕事に付き合いながらのデートだった。武蔵野タウン誌の仕事でゾウの「はな子」の撮影に来たのだ。撮影中は琴乃でさえ声をかけられないくらいに集中している。たとえ今、話しかけても深田の耳には、はな子の声しか入ってこないはずだと琴乃は思っていた。

「ありがとう、はな子。いい写真撮らせてもらったよ」

深田は、はな子に大声で礼を言った。はな子も応えるように鼻を持ち上げ、肩を左右に振った。

「幸樹さんに撮ってもらって、はな子もなんだか喜んでいるみたい」

琴乃はすっかり深田の撮影パートナーと言える存在になっていた。深田の仕事が終わり、二人は他の動物を見て歩いた。

「この間、琴のお姉さんに会った」

深田はいつしか琴乃のことを琴と呼ぶようになっていた。

「えーっ! 本当! どういうこと? どうしてお姉さんって分かったのよ」

琴乃は何が何だか分からず深田の返事を急かした。

「驚いたよ。まさか仕事で琴のお姉さんに会うとは」

深田はその日のことをすべて話した。

「へー、そんな偶然あるのね。で、どんな感想?」

「公平君を大事にしてくれそうだな。しっかりとしていて頭の良い人っていう感じかな。仕事でも優秀な人だよ、美紗子さんは。琴のことをよろしくお願いしますって頼まれたよ」

「そう。いいお姉さんでしょ。私の自慢のお姉さん。私にはお姉さんでありお母さんみたいな人。ときどきお姉さんが話しているのを聞いていると母さんに言われていると錯覚をするの」

「KAZUMIっていうお菓子の写真を撮ったんだけど、名前の由来を聞いたよ」

深田はその話を美紗子から聞いて思わず涙ぐんだことも琴乃に話した。

 

「もしもし、お姉さん」

「あっ、琴乃ちゃん? 電話してきたということは深田さんから聞いたのね」

「もう、びっくりしちゃった。奇遇よね。今どの辺り? もうそろそろ熱海に着く頃?」

「今、厚木インターを降りたところ、あと一時間もしないで着くと思う。そっちは?」

「保育園の遠足みたい」

「遠足? どこにいるの?」

「井の頭動物園。ゾウのはな子とお話に来ているの」

「まあ、動物園でデート?いいなぁ。公ちゃんなんか連れて行ってくれたことないよ」

「幸樹さんが美紗子姉さんはしっかりして頭のいい人だって」

「お褒めくださってありがとって伝えてね」

「今晩は、熱海の温泉で泊まってくるんでしょ?」

「そんなお金もったいないから夕飯までには帰るわ。琴乃ちゃんは? 夕飯どうするの?」

「そんなこと言わないで泊まってくればいいじゃない。私たちは何も決めてないけど」

「だったら、深田さん連れて一緒に帰ってくれば。夕飯一緒にしよ。鯵の開きでも買って帰るわ。ね」

「いいの? じゃあそうする。あら、ふふふ、隣で幸樹さんが緊張してる。お兄ちゃんに運転気をつけるように言ってね」

美紗子と琴乃はお互いのパートナーの意見を聞くこともなく、その晩の予定を決めた。

 

クルマは熱海に着いた。緩やかにカーブしながら上る坂道の先には美紗子の祖母が暮らす施設がある。公平は施設の駐車場にクルマを停めると後部座席に置いていたリボンの付いた大きな箱を取り出し、美紗子とともに施設の玄関に向かった。

ホテルのフロントを思わせる受付で神原正代の家族であることを伝え、ロビーで待った。事前に訪問を知らせてあったので受付に戸惑うことはなかった。間もなく担当の介護士がロビーに現れた。公平とさほど年恰好も変わらない若い介護士だった。

「お待たせいたしました。神原さんを担当させていただいております上田です」

爽やかな笑顔の優しそうな青年であった。

「お世話になっております。孫の青木美紗子です。こちらは私の婚約者で野々村公平です」

美紗子は挨拶と一緒に公平を紹介した。

「遠いところ、ようこそお出でいただきました。今日はまず、正代さんのお部屋の方にご案内します。見晴らしのいいお部屋です。さあ、こちらへ」

上田はロビーの脇にあるエレベーターに誘導した。

「熱海は何度目ですか?」

エレベーターの中で上田が二人に尋ねた。

「二回目です。会社に入って新入社員研修を熱海の会社の保養所で受けた時以来です」

公平はそう言いながら当時を懐かしんでいた。

「私は一年前に一度、こちらに伺いました」

「そうでしたか? はい、着きました。七階です」

上田は公平と美紗子を先に降ろすと背後から右ですと声をかけた。

施設のエレベーターは速度が遅く設定されている。ゆえにゆっくりと振動もなく昇降する。施設の造りはどのフロアも同じで、すべての部屋が海側に面しており、ちょっと広めの廊下と比較的高い天井、それに淡い水色で統一された壁が開放感のある空間を作っていた。

「正代さんのお部屋はこちらです」

入り口はスライド式のドアになっていた。上田はノックをすると明朗な声で正代を呼んだ。

「正代さん、お孫さんがお見えになりました」

先に入った上田がそう伝えた。後に付いていた美紗子が声をかけた。

「お祖母ちゃん、美紗子です。帰ってきました」

美紗子は耳が遠くなった祖母にちょっと大きな声をかけ、中に入った。大きな窓が部屋をより一層は明るくしていた。八畳ほどの部屋にはベッドの他に一人用のソファとテーブル、備え付けの洋服ダンスとソファの高さに合わせた背の低い多目的デスクが置かれていた。

「美紗子、帰ってきたのかい。元気そうだね」

正代の視線は美紗子の後ろにいる公平に向けられた。

「お祖母ちゃん、今日は報告があって……」

美紗子がそう言いかけた時、正代は座っていた小さなソファから立ち上がり、美紗子の背後にいた公平の前に進み、深々と頭を下げた。

「どうか、美紗子をよろしくお願いいたします。この子には両親がおりません。でも、しっかりと私が育てました。それでも至らないところがあるでしょうが、そこはこれからも努力させます。どうか、どうか、幸せにしてやってください。この子は家庭の幸せに薄い子です。でも優しい、本当にいい子なんです」

正代は腰を折ったまま公平に懇願するように一気は言葉を繋いだ。その目からは涙が溢れていた。美紗子は今までに祖母が泣いたところを見たことがない。美紗子には厳格な祖母のイメージしかなかったのだ。

「お祖母ちゃん。ありがとう」

美紗子は祖母の肩を抱きながらソファに座らせた。

「初めまして。野々村公平と申します」

公平も胸が詰まって自分の名前を言うのが精一杯だった。公平は正代の苦労がよく理解できた。

「お祖母ちゃん、どうして分かったの? 公平さんのこと」

「そりゃ分かるよ。一目見て分かったよ」

「僕にも両親はいません。父は小学生の時に亡くなり、母も昨年春に他界しました。妹が一人おりますが、親戚はいないので美紗子と、いや美紗子さんと同じように身内は妹の他にはおりません。でも、一生懸命に二人で家族を作ります。裕福な暮らしはできないかもしれませんが、幸せな家庭を約束します。美紗子さんとの結婚を許してください」

「何をおっしゃるのですか。こちらこそよろしくお願いします。不束な孫ですが、どうか末永くお傍に置いてやってください」

正代の安堵した表情は優しかった。

「はい。必ず。あっそうだ、お祖母さんにお土産を持ってきていました」

そう言うと公平は入り口に置いた大きな箱を取り上げ、正代に渡した。

「贈り物をいただけるなんて、なんということでしょう」

美紗子が開けるのを手伝った。箱の中には桜をあしらったガウンが入っていた。

「お気に召すかどうか分かりませんが着ていただけますか?」

「公平さん、ありがとう。美紗子はいい旦那様を見つけたね」

「違うわ、私が見つけられたのよ。ねえ、公ちゃん」

美紗子の冗談に正代が謝った。

「こんな子ですが、本当にいいのですか?」

「はい。僕は運命を感じているんです」

公平の言葉に正代が微笑んだ。

「おめでとうございます。いいお話を聞かせていただきました。正代さん、よかったですね。新しいご家族ができますね」

上田は三人の会話に何度も頷きながら言った。

「はい、ありがとうございます」

公平は上田の言った新しい家族ができるという言葉が嬉しかった。

窓から太平洋を見渡せた。青々と果てしなく広がる海は、若い二人の出発を祝うかのように雄大に見えた。公平と美紗子は学生時代に知り合ってから今日に至るまでのことをできる限り分かりやすく話した。亡き母和美を美紗子が本当に母のように慕っていた話に正代は涙ぐんだ。公平が、妹も今では美紗子を本当の姉として慕っていると言うと、美紗子は幸せ者だと何度も頷いた。公平はようやく緊張が和らぎ、改めて部屋の様子に気を向けることができた。クリーム色の壁に三枚の写真がかかっているのを見つけた。洒落た額に入れられた山と川と畑の写真だった。

「この写真は?」思わず正代に尋ねた。

「これは秩父連山。こっちは私と美紗子が昔住んでいた秩父の町の写真です」

「そうですか。きれいなところなんですね。いい写真ですね」

公平はその写真から容易に秩父を想像することができた。

「のんびりした田舎ですよ。でも私は戦後に移り住んで以来、ずっと暮らした町なので秩父の方が合っているのですが、最近は足腰が危なくなってしまい、弟が心配してこんな身分不相応なところに入れてくれたんです。ここは皆さん本当によくしてくれてありがたいです」

「だから、前に私も公ちゃんに言ったことがあるでしょ、すごく田舎町だって。本当にこの写真みたいなところなのよ」

美紗子も懐かしそうにその写真を見ていた。デスクに目を移した公平は、そこに置いてある物を見つけ、はっとした。そこには藤堂保弘の写真集が並んでいた。

「お祖母さん、藤堂保弘の写真に興味があるのですか?」

「いいえ、私は写真集なんてよく分かりません。それは弟が置いていったんです。自分で撮った写真なんだそうです。この壁の写真も弟が撮ってきてくれました。私がしょっちゅう秩父に帰りたいと言うものだから、わざわざ秩父まで行ってね、撮ってきたんだそうです。こんな写真を見たらまた帰りたくなるじゃないですかねぇ。でも優しい子でね。今でもつい子供扱いをしてしまいます。保弘ももう七十近いというのに」

正代は笑って弟の話をした。公平と美紗子は顔を見合わせた。そこで二人は驚愕の事実を知ることになる。

正代の弟が藤堂保弘……、

「えっ? お祖母ちゃんの弟が藤堂先生なの? そう言えば私、お祖母ちゃんの旧姓なんて知らなかった。じゃあ、ここにお祖母ちゃんを連れてきたのは藤堂先生なのね」

「美紗子は保弘を覚えてはいないだろう? どうしてお前が保弘を知っているんだい? 保弘は何かの先生なのかい?」

正代も一体何がどうなっているのか分からなかった。弟が何をしている人間なのかよく認識していなかった。公平はあまりの驚きで言葉をなくしていた。

「籐堂保弘は日本を代表する写真家と言ってもいいくらいのすごい人なのよ」

美紗子はまず藤堂が著名な写真家であることの説明をした。

「お祖母さんは戦時中、東京に住んでいた……。そして、調布で空襲にあったのですね」

「何故、それを知っているの!」

突然の話の展開に正代は驚きを隠せなかった。

「籐堂先生から戦時中、調布にしばらく住んでいたと伺いました。戦火の中を逃げたのだと」

公平は籐堂との話を正代に伝えた。

「そうだったの。保弘とは知り合いだったのかい。調布には戦争の思い出しかない。幼かった保弘を連れて逃げ回ったよ。ある日、私は世話になっていた家の人に頼まれて近くまでお使いに行った帰りだった。空襲警報が鳴り響いて、怖くて震えながら帰りを急いでいたの。でも、突然地響きとともに爆風に飛ばされそうになって、足がすくんでしまい動けなくなった時、大きな瓦礫が建物から剥がれるように降ってきた。目を瞑って全身に力が入ってもうダメだと思った。その後は記憶がないの。気が付いたら母に似た人が私に覆いかぶさって……一瞬母が助けてくれたのだと思った。でもそんなことはあり得ない、だってその時はもう結核で母は亡くなっていたから……」

正代はまるで窓の外に張られたスクリーンに当時の画像が映し出されているかのように空中の一点を見つめていた。

 

周囲は見る影もなくなっていたが、邦子は昭夫と佳子が待つ防空壕に向かって走っていた。間もなく防空壕に着くと思ったその時、背後で地響きと爆音とともに周辺の建物が破壊された。二つ目の爆弾が投下されたのだった。爆風で倒壊した建物などの瓦礫が嵐のように宙を舞った。邦子は爆風で転んだがすぐに起き上がることができた。再び走り始めようと前を向くと、目の前に立ち竦んでいた少女に倒壊した大きな瓦礫が襲い掛かるのが目に入った。邦子はとっさにその少女に覆いかぶさった。鈍い音がした。瓦礫が邦子の背中に刺さっていた。

「大丈夫?」邦子は少女の安否を心配した。

「うん。大丈夫」

少女は恐怖でしがみつくように邦子の胸に頬つけて震えた。

「よかった。無事なのね。痛くない?」

少女は震えながらも頷いた。

「早く近くの防空壕に逃げなさい」

邦子はそう言うと肩から掛けていた布の鞄から御守を取り出すと少女に握らせた。

「この御守がきっと守ってくれるからね」

邦子は少女を安心させようと笑顔を作り、少女が走って行く後ろ姿を朦朧(もうろう)とする意識の中で見送った。昭夫と佳子の顔が浮かんだ。遠のく意識の中で、川で二人と笑いながら野菜を洗い、弁当のサツマイモを頬張って水辺で遊んだ日のことを思い出していた。不思議と背中の痛みはなくなっていた。気が付くと目の前には色とりどりの花が一面に咲き乱れていた。優しい風が邦子を包むようにその方向に導いた。誰かが邦子を呼んだ。「母ちゃーん、母ちゃーん」聞き慣れた声だった。そうだ、昭夫と佳子にここにいることを伝えておかないと……邦子は風の導きにしばし足を止め振り返った。

 

「私は母に似たその方がいなかったら間違いなく死んでいた。その人に言われた通り必死で走った。御守を握りしめて。この御守が今日まで守ってくださった」

正代はパジャマの上に羽織ったカーデガンのポケットから御守を取り出した。

「これは!」

公平が大声を上げた。そしてジャケットの内ポケットから千鶴に継承してほしいとと譲り受けた自分の御守を取り出した。三つ目の御守がここにあった。

「どういうことなの」それを見た美紗子も混乱していた。

「お祖母さん、この御守はどうしたのですか?!

公平の頭の中で一連の人たちが結びついた。

「これは、その時に私を助けてくれた方からいただいたの。この御守が守ってくれるからと、私に握らせてくれたの」

公平は、菊池千鶴の話で聞いた少女が正代であることを確信した。

「そうか。そうだったのか。正代お祖母さんを助けた時、自分はもう助からないと悟った邦子さんは自分の御守を正代お祖母さんに渡した。正代お祖母さんが助かってほしいとの思いで。そしていつかきっと、この御守が平和な時代に再び揃うことを願ったに違いない。だから、邦子さんが亡くなり、昭夫さんと佳子さんが、親子の絆である邦子さんが持っているはずの御守を探したが見当たらなかったんだ。それはここにあったんだ」

公平は千鶴からもらった御守の謎を解くように話した。そして千鶴から聞いた当時の話を正代に話し始めた。

「お祖母さんを助けた人は田所邦子さんと言います。当時、田所さんは調布にあった軍服の縫製工場に勤めていました。あの日、邦子さんは小学五年生の息子昭夫さんと佳子さんという一年生の娘さんが避難した防空壕に向かう途中でお祖母さんを助けたのです」

「そうだったの。でも何故それを公平さんが知っているの?」

正代は積年抱えていた重石が軽くなっていくのを感じ、公平の話の先を期待した。

「僕は一年ほど前に当時の国民学校の先生と偶然に出会いました。その先生は、今は菊池千鶴さんと言います。田所邦子さんが亡くなられた時に息子の昭夫さんとその場にいたそうです。でも田所邦子さんが助けた少女が誰なのかは分からなかった。調布には国民学校は一校しかなく、学校の生徒ならば分かったはずなのに不思議でした。でもそれがお祖母さんだったことで分かりました。当時、神田の国民学校から調布に来たばかりの籐堂兄妹は、まだ調布国民学校への転校の手続きをしていなかった。しかし、調布の空襲も激しくなると思われたお祖母さんの叔父さんが転校する前に心配されて秩父に連れて行かれたのですね。これは藤堂先生のお話で分かりました。千鶴さんは昭夫さんと佳子さん兄妹のことを戦後ずっと気にかけて生きてこられました。半年前、また偶然にも今度は妹の琴乃がその千鶴さんと会ったのです。それは奇跡のような出会いでした。妹が勤める保育園の園長の母親が入院した同じ病室に入院していたのが菊池千鶴さんだったのです。そして、佳子さんと千鶴さんは六十五年ぶりに再会しました。きっとお祖母さんのことを知ったら喜ぶと思います。僕がお祖母さんのことを佳子さんと千鶴先生に伝えます。三つの御守をもう一度揃えてあげましょう」

公平は正代を佳子と千鶴に引き合わなければならないと思った。この奇跡のような巡り合いは自分に与えられた使命なのだと思えてならなかった。

公平の話を聞きながら正代は顔を覆って泣いた。

「田所さんの娘さんは秩父で元気で暮らしておられます。お名前は鈴木佳子さん、息子さん夫婦とお孫さんは調布に住んでいます」

「そう、娘さんが、娘さんが生きておられたの。しかも秩父にいるなんて。戦後、私たちはお互いを知らず同じ秩父にいたんだね」

正代は自分を助けてくれた邦子の娘に会って詫びたいと願った。

「お祖母ちゃん、会いに行こう」

美紗子も祖母の願いを叶えてやりたかった。

 

その晩、幸樹を連れて琴乃が帰ってきた。美紗子は鯵の開きを焼いて仏壇に供えた。

「お母さん、人の繋がりってすごいわね、ひょっとしてお母さんの仕業?」手を合わせながらその日の出来事を報告する美紗子だった。

琴乃も美紗子の料理を手伝いながら、公平が話すその日の衝撃的な事実に耳を傾けた。

「深田さん、籐堂先生に会いたいのですが、段取ってもらえますか? 皆さん高齢なのでどうするのがいいのか籐堂先生にも相談したいんです」

公平は籐堂の意見が聞きたかった。

「分かった。明日、ちょうど次の写真集出版の打ち合わせで先生に会うから、俺が話せる限り先生に情況を説明しておくよ。それにしても壮絶な話だよね。それが不思議と全部、公平君に繋がっている。すごいよ。こればっかりは写真に撮れないもんな。でも何か、見て分かるようにできないものかな」

幸樹は公平の話に登場する人たちの記憶を画像に残せないものかと考えていた。写真の力で永遠のメモリーを作ってあげたいと思うのであった。

「籐堂先生の次の写真集って、もしかして」

「そう、去年の個展の作品をまとめたものだよ」

「やっぱり。あの個展は本当にすごかったですよ。深田さんのカワセミも入るんでしょ?」

「いやいや、今回の写真集は奥様の油絵作品も入れたもので、それ以外は入れてないんだ」

「深田さんの写真集はいつ出るんですか?」

「うーん、あと十年は必要かな」

幸樹はまだまだだというふりをした。

「でも、早く売れてくれないと結婚してあげないよ」

キッチンで美紗子と並んでいた琴乃が真面目な顔をしていうと幸樹は焦った表情になった。そして、幸樹には見えないように美紗子に舌を出して笑った。

「幸樹さんは真面目なんだから、苛めないの」美紗子が小声で叱った。

「大丈夫、会社の給料は安定したし、今月からちょっと上がったし……」

幸樹は必死で説明しようとしたが、言葉が出ず、公平に救いを求める顔をした。

「琴乃! お前は何様だ!」公平が嗜めた。

「だって、幸樹さん、まだプロポーズしてくれてないんだよ」

「えっ? そうなの?」

公平と美紗子が声を揃えて幸樹を見た。

「いや、あのー、それは、もう分かっていることで、あのー、それをいつ言おうかと、それで時間が……」

しどろもどろになる幸樹の顔面は汗だくになっていた。

「そりゃあ、幸樹さんが悪いわ。 今、ここで言ってあげたら」

美紗子もちょっと苛めてみたくなった。

「深田さん、簡単ですよ。俺の嫁さんになれ。もらってやるって言えばいいんですよ」

公平は後押ししたつもりで言ったが、美紗子が噛み付いた。

「もらってやる? どうかお嫁さんに来てくださいでしょ!」

「わっ、面倒くせぇ」

「面倒くさいとは何よ! 大体、公ちゃんはいつもそうなの。自分の考えばかりでものを言うのを止めなさいよ。琴乃ちゃんの気持ちを考えなさい!」美紗子が完全に怒った。

「美紗子だって、自分の言うことがいつも正しいようなことを言うなよ」

公平が言い返した。幸樹と琴乃の前で口喧嘩が始まったが、情勢は美紗子の方が上だった。最後は公平が反論できないように追い詰められた。幸樹は自分が責められている気持ちになり、ついに口を挟んだ。

「すいません。俺がいけないんです。琴がいつも傍にいてくれることが当たり前になって、それに甘えていました。俺は鈍感で気の利かない男です。でも、琴のことを誰よりも想っています。琴しか自分にとって将来をともにする人はいません。琴を大事にします。必ず認められる写真家になります。それまで苦労するかもしれません。でも二人でいれば乗り越えていけます。いや、琴がいてくれれば乗り越えられます。だから、だから、俺と結婚してください。お兄さん、お姉さん、どうか結婚を許してください」

幸樹が一気に話した。話した本人も一体何を言ってしまったのだろうという顔をしていた。

「はい。お嫁さんにしてください」

琴乃が目にいっぱいの涙を溜めて言った。美紗子も微笑みながら涙を流した。

「でも、お兄さんはやめて」公平が言った。

「え? 俺、そんなこと言った?」

公平はそれを聞いて二、三度頷いた。

「お姉さんもやめて」

美紗子もわざと真顔で言った。

数秒の沈黙をおいて四人は幸せそうに笑った。